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      <title>こずえレディースクリニック　院長ブログ</title>
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      <description>東京都目黒区祐天寺駅近く女性外来・心療内科「こずえレディースクリニック」布施梢院長ブログ</description>
      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2010</copyright>
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         <title>お伊勢さまは畏れ多いところでした</title>
         <description><![CDATA[<p>
前回、神様のお引越しに興味を持ったことで、結果として神様の中心的存在である伊勢神宮に参拝したくなって、早速行きました。その日は到着時刻が遅かったので、とりあえず駅前で夕食を取ってからホテルを探してぶらぶら歩きました。40数年前に一度訪れていますが「赤福」を食べた記憶しかなくて、また今回も下調べせずに突然来てしまい、これからどうしようと途方にくれながら外宮の前までやって来ました。でも神様の気配がしません。｢神様は今回もお留守かも？｣と不安になりましたが、翌朝早起きして詣でました。参道に入って鳥居をくぐり15ｍほどのところから強い氣のようなものが感じられ期待感が高まります。豊受大神宮の南御門のところで御正宮を拝むのですが、足元がふらつくほどの強い力が風のように噴きつけていました。それは地底の巨大なマグマのような測り知れない力であり、その前では善も悪も消し飛んでしまうほどの恐ろしいもので人の存在は砂粒にも値しないようでした。打ちのめされた心地でその場を辞して三ッ石のところに来ました。そして、ついうっかり石に触れてバチが当たりました。右手が感電したような感じで中指が動かなくなったので、池の方向に逃れて行くと観光客が小さな石橋のところで写真を撮っています。私も亀石の上で池をﾎﾞｰっと見ていると左足が先ほどと同様にしびれてきて不整脈が出始めました。とても耐えられなくなって境内の外に出ると、不整脈は2時間ほどで消失しました。その後は前より元気が出て来た気がしました。
</p>
<p>
午後から内宮へ行きました。宇治橋を渡ってほどなく、ホンワリした暖かい（遠赤外線効果に似ている）感じがしてきて、その感じは境内全体に満ちていました。御正宮を参拝した時も感じが強まるだけで外宮で感じた恐ろしさはまったくありません。内宮、外宮ともそれぞれに穏やかな「和御魂」と勇敢な「荒御魂｣を祭っているはずですが、感じられる｢氣」の違いはどこから来たのでしょう。内宮に祭られている天照大御神様の境内では力の元が何かに覆われたような感じの柔らかな波動に感じられます。それに比して、外宮では強い鋭い焼くような波動でした。これは神様の性格によるものでしょうか？役割のせいでしょうか？ それとも天照大御神様は再び天岩戸に入られて半分顔を隠されているのでしょうか？
</p>
<p>
ぼんやりそんなことを考えながら内宮を後にして｢おはらい町｣を歩いていると、通りは賑やかでイベントもあるらしく、若者が喜びそうな時世に乗じたお店が並んでいて祭りの雰囲気がありました。それに較べて外宮のある駅前に活気が無かったのが気になりました。市街地の真ん中に位置するのに閉店している店が目立ち、ビルも老朽化したものが多いようです。現代人が伊勢詣でをしなくなったとはいえ この違いはかなりのものです。内宮は皇大神宮ですが、皇族の方々は両宮を参拝されるはずだし、神社仏閣は無税だから街の経済に関与しているとは思えません。天照大御神様がお呼びになった豊受大御神様を地元民が軽んじるはずはないけれど、外宮は5百年近く遅れて建立されているので新参者の扱いなのでしょうか？どうも私には｢氣｣の種類が関係しているように思われました。外宮の激しい氣は近くのものを弱らせてしまうのではありませんか？境内の外へはブロックされている感がありますが、それでも長い月日のうちに少しずつ被曝したような感じになったのではないですか？それに対して、内宮の穏やかな氣は私たちに太陽の恵みのような効果を与えてくれるのかもしれません。ただ内宮の氣は遠くにあるために恩恵をもたらすのであって、もし近くに寄ろうとすれば脅威と変わるのでしょう。その意味で外宮は庶民に近いところに存在しているのかもしれません。
</p>
<p>
そしてわかったことがありました。私の親族に｢荒御魂｣のような強い力を発している人がいて悩みの種でした。彼女はいつも周りの人たちとうまくやれず、相手の自立を認めません。自分の思う通りに事が進まないと癇癪を起こして従わせるので相手は疲れ切ってしまうのです。こんな場合は納得してもらおうとせずに相手との距離をしっかり保たなければいけなかったのです。接近して説得しても彼女の力が大きすぎるのでこちらが疲憊するだけでした。戦わず遠巻きに見ているのが最善の策だとやっとこの時気付きました。
</p>
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         <pubDate>Sat, 19 Jun 2010 22:18:36 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>改築中神社の神様はお留守です</title>
         <description><![CDATA[<p>
神楽坂に行った折に赤城神社に寄りました。全面的な改築工事のため参道の門は閉鎖さられていましたが、良い『氣』だけでも頂こうと石柱の前にたたずみました。神社に感じる「霊気のようなもの」は全く無く、傍らの大木に手を触れて確かめてみても何も感じられません。変だなと思って少し周辺を歩くと左側から良い気配がするので、近寄ってみると仮の祭壇がしつらえてありました。みかん箱を数倍にしたような木の覆いの中にお神酒と鏡がちょっこんと置かれて、張り紙で「参拝はこちらでお願いします」とあります。改築中の立派な建物には似つかわしくない簡素さで拍子抜けしましたが、正面に立ち参拝するとすごい『氣』を感じます。それは『鏡』から発生していて、人為的に最近入れられたようでした。この現象に遭遇して、これまでの神様とか氣とか霊的な物に対する考え方が間違っていたことを知りました。
</p>
<p>
今まで、「霊気のようなもの」はその『土地』や古くからある『物』ーたとえば石、剣、仏像などーに存在していてそこに限定されたものだと理解していましたが、赤城神社の神様は本殿のご神体から何らかの手段で小さな『鏡』の中に移されていました。その神様の気配はかなりの強さを持っており、交感神経が興奮させられてやる気を出させるもので、これって高尾山の神社や奥沢神社でかって感じたことがありました。
</p>
<p>
真実を確かめるべく、奥沢神社の神主様を訊ねることにしました。善日に神社に参拝してると後ろから神主様に声をかけられました。アポﾟ無しの初対面なので偶然にしては出来すぎね。そこでうかがった話を私流にまとめると、神様は私たちがお願いしておいでいただくのだが、お願いするには場所も人も時もきちんと整えなければいけないようです。神様は高いところや綺麗なものや正しいものがお好きなようで、そういうところにとどまり熱烈歓迎に応えられるのでしょう。でも、工事中でうるさかったり、下心ありそうな時は去ってしまわれるらしいです。神様の性格は大雑把に分けると、荒々しい武将タイプと穏やかな和平タイプがあるようで、それは親族的に受け継がれているらしいです。民衆の都合で、時代とともに神様の人数？も増え問題児も出現しました。だから旧来の単純な祈り方ではご利益が出にくくなったのかもしれません。私が感じている「霊気のようなもの」は神様の気配かもしれないし『氣』なのかもしれず、それが良いものだとは限らないそうです。
</p>
<p>
奥沢神社の神主様は『神様』と『氣』を分けておられましたが、私は同一線上にあるものだと考えています。全ての人に７～８種類の『氣のようなもの』が出ているのが見えます。他の動物や非生命体である物質、人工物からも同様に発生していて、出ている種類と数が違うだけです。その性質には神様の武将タイプと和平タイプが少しずつ含まれています。人間に交感神経と副交感神経が拮抗しながら働き生命を維持しているのも同じようなことかもしれません。『氣』を見れるようになってから「神は全てに宿る｣という感覚が分かった気がしています。古代の人たちは『氣のようなもの』をみんなが感じて見ていたのでしょう。仏や菩薩やキリストやマリア様が背後に光輪を着けておられる姿は見たとおりを描写したものではないかしら。
</p>
<p>
『氣』が見えることで、病気の有無や幸運の招聘が分かればどんなにすごいかと妄想しますが、実際は何の役にも立ちません。これは特殊能力というより誰でも可能なものらしく、３３名に『氣』の見方を教えたところ３１名が見ることができました。実用的ではないけど見えた『氣のようなもの』が『神様』に連なっていると思えば、ちょっと素敵じゃないですか。それに神様はきちっとお願いすればお越しいただけるようです。しかし、ご利益を得られるかどうかは神様しだいなのかしら。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
]]></description>
         <link>http://www.kozue-cl.com/2010/05/post_72.html</link>
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         <pubDate>Sat, 15 May 2010 19:49:01 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>私は強い人なのか？</title>
         <description><![CDATA[<p>
先日、知人と話してる折に「あなたは強いからそんなことが言えるのよ！」と憮然とされてしまい、こちらこそ唖然とすることがありました。私の体が強いはずはないので、精神的なものが強いという意味なのでしょう。そう言われても「どこが・・?」って感じで参ってしまいました。今まで「強い」、｢鈍い｣、｢粘い｣、｢太い｣、｢ちゃっかり｣、｢ぽっかり｣、「しっかり」、という形容詞、形容動詞を私に被せる人がいても「何も知らないくせによく言えるわネ｣と無視していましたが、何故こういう納得できないことを人様に言われてしまうのかきっちり分析しておくほうがイイかなと考えました。
</p>
<p>
知人は息子が職場の人間関係で悩んでいることで彼女も悩んでいました。なぜ彼はうまく人と付き合えないのか、なぜ明るくふるまえないのか、なぜ積極的な行動がとれないのかと気をもんでいました。でもそれらは彼女にも当てはまることですから体質みたいなもので、気に入らない遺伝を持ったと文句つけてもしょうがないわ。｢今まで支障なくやってこれたのだから、それらの性格はたいしたハンディーではなさそうよ。｣と言うと、｢子供のことがいつも気になって、そんなふうには考えられない。｣と答えが返ってきました。
</p>
<p>
こういう感じを母性とか愛情と呼ぶのでしょう。私は眼前に子供がいないとその存在はほとんど意識されません。それは友人でも、家族でも恋人でも同じです。夫との恋愛期間中もここにいない彼の存在は意識されることがないという事実に気づいていて、それを愛情の欠如だと恥じていました。私には愛する能力が足りないのだと確信していました。今ここにあることが私の世界の全てらしいのです。想像することは大好きですが、想像の世界を体験している自分しか実感がありません。夫ならば、子供ならばという仮定は成り立ちません。だから一人でいても楽しく過ごせます。友人や家族といても楽しいですが、いなければ彼らをほとんど意識しませんから、ときに周囲の人たちから薄情な人間だと思われるようです。友人からのお誘いはほとんど無くて、誘う時は必ず私からの一方方向であるのがその証明でしょう。やはり情が薄いというのでしょう、あるいは執着しないのかもしれません 。
</p>
<p>
小さいころからの私のイメージは『暗い冬の小道を這いながら、震えながら進む姿』であり、路傍の街灯や焚火などに遭遇すれば僥倖だというものなので、こんな最低の状況を人生のベースとしていれば何があってもしょうがないとあきらめられるわね。もうひとつ子供のころから考えていたことがあります。『自分は何を求めるか？』という問いに対する答えを見つけるというものです。中学２年生の夏休みにそれは一つの『スペル』を綴ることだと思いました。それからずっと綴らねばならぬ『スペル』を探していて５０代半ばにやっとこれだろうというものがでてきましたが、まだ決定ではありません。これって大いなる一人遊びだと思いませんか。そうすると私に被された様々のことは合っていたことになります。ここまで書いてきてやっとわかりました。繊細さの反対にある野蛮な強さというものは個人の資質ではなくて家系が有するDNAなのだと。私の家族はフレンドリーでもなければ争い合っている関係でもありません。用事がなければ電話もしないし、正月でさえわざわざ集まることはありません。困った時は助けてくれず、必要ない時にはおせっかいしてきます。それぞれが勝手で相手に要求はするが期待はできないと思っています。この姿勢は表現方法が少し異なるだけで私の実家の者たちに共通します。そういえば父方の祖母に私はよく似ていると言われていましたが、祖母も同じような性格だった気がします。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
]]></description>
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         <pubDate>Wed, 31 Mar 2010 22:05:14 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>あー！アイキドウ・・</title>
         <description><![CDATA[<p>
近頃、体のあちこちが痛むのを無視できなくなってきて何か手を打たねばと考えていた矢先、テレビを見てピーンときたことがあります。私の「運動不足を何とかせなあかん！」という思いと『竜馬伝』で主人公が「土佐藩をなんとかせなばいけん！｣という気持ちがその瞬間一致したのね。竜馬が剣道の練習をしている場面に自分の姿をだぶらせるとしっくりしてカッコよく、ことに袴をつけて素足でツーツーと歩いていくところなんかがリアルに想像されました。それでこういう姿の運動が私向きだと結論したのですが、剣を(竹刀でも)持つのは危ないから同じような稽古着を着用する合気道がいいかも？となりました。
</p>
<p>
さっそくネットで検索すると合気道には流派がいくつかあり、それらを一つずつ無料体験することにしました。手始めに割と王道と思われるものから始めました。遠方にある道場に行くだけで疲れてしまったことと昼食をとり損ねたことで体がヘロヘロになってしまって、そこでの練習の間ずーっと畳のような床にへばっていました。でもそれが幸いしました、と云うのは強面の男性？ばかりでドタンバタンひっくり返っている中に私のようなヤマトナデシコが入るなんてとんでもないことね。指導者から｢不向きではないか｣との指摘があり、異議なしということでこちらは断念しました。
</p>
<p>
次はもっともっと軽めで近場がいいだろうと選んで行きました。道に迷ってしまい大幅な遅刻で飛び込むと部屋が暗く人のいる気配がありません。カビ臭いムッとする臭いが立ち込めており、なんか危なげな感じがするので帰ろうとすると奥から中年女性が出てきて受付けをしてくれました。間もなく生徒さんの女性が一人やってきて、先生と３人で練習が始まりました。合気道というより太極拳やヨガに近く、動作もゆっくりで、真似してやっているとあくびが出ますが他の２人は目を閉じてユラユラ金魚運動をしています。これは竜馬の精神とは異なると判断して入学を辞退しました。また無料だと思ったのに体験料はしっかりとられました。
</p>
<p>
｢こんなんではいかん！」と腹を決め、ほどほどのところを選びました。早く着きすぎたので一人で道場の真ん中に足を崩して座っていると次々に生徒さん(半数が男子大学生であとは壮年男性）が入り口で挨拶して小部屋に消えてゆきます。ずいぶん丁寧な人たちだと感心して私も挨拶を返していたら、先生が入ってこられて私の隣に座りました。生徒さんはゾロゾロと道場の隅っこに向かい合うように整列していきます。てっきり私を紹介してくださるのだとすましているとなんか雰囲気が変です。端っ子のおじさんが隣の畳を指すので何？としばらく考えていたら、やっとそこが私の居場所だと気付きました。先生に「あそこですか?」と訊ねるとコックリするではありませんか。「それなら最初にきちんと説明しなければダメでしょう！」と言いたいところをぐっとこらえて末席に移動しました。稽古は２人ひと組になり受身の練習です。初めてなので先生が私の相手をしてくださいました。先生の進む方向を阻止するとごろっとひっくり返されます。体中ぶつけたり、でんぐり返しのできそこないをやったりして足がつったので「私の年齢と体験を考慮してやってください！｣と大きな声を出したら先生は動かなくなりました。怒ったのか、あきれたのか判別できないのでそのまま練習を続けました。帰りに先生に「私はここでやってゆけそうですか？」と問うと「たぶん、大丈夫でしょう・・｣とのこと。、『氣』が見える私は先生の『氣』の状態が弱気になっていると説明したら先生の口がOの字になってしまい、ここもやっぱり入学できないことを知りました。
</p>
<p>
さて次に下町の庶民的なところを選びました。生徒さんのほとんどが子供たちです。大人のクラスは人数が少なくてアットフォームな雰囲気です。今までの失敗を肝に銘じて教えられた通りにやったつもりですが、先生がしばらくすると訊ねられました。「今まで運動というものをやったことがないのですか？｣「はい、本気で走ると足がもつれて転ぶので、運動は体質に合わないみたいです。｣と素直なとこを見せたら、全員がひいた様になりました。でもここが合いそうなので授業料を払い込み、名前入りの稽古着を買いました。ところが丸顔の私を太っていると勘違いしたらしくてバカに大きい稽古着が届いてしまい、着ると重いカミシモをつけた案山子のようにしか動けません。｢何回か洗うと体になじんできますよ。｣と言われてもそれまでどうするのよ！
</p>
<p>
という次第で合気道を始めたのですが、１回やると１週間筋肉痛が持続するので、『体の痛みをとるために運動しよう』という本来の目的に反するのでは？との悩みが起きてしまいました。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
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</p>
]]></description>
         <link>http://www.kozue-cl.com/2010/02/post_68.html</link>
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         <pubDate>Sun, 21 Feb 2010 15:21:07 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>歳とって得なこと</title>
         <description><![CDATA[<p>
<span style="font-size: 10pt"><span style="font-family: ＭＳ Ｐゴシック">わたし乙女の頃、自分は若くして世を去る運命だと思っていました。だってお姫様が歳とったという話はなくて、お婆ちゃんになってやることもおもしろくなさそうだし、若いうちにキレイなままで皆様の記憶に残ったほうがいいワというノリでした。。それで周囲の人たちにその話をすると鼻で笑われてしまい、「あなたは意地悪ばあさんになり、周りに迷惑をかけるタイプだ」とか｢最後にチャッカリいいとこどりをして嫌われるタイプだ｣とか</span></span><span style="font-size: 10pt"><span style="font-family: ＭＳ Ｐゴシック">｢目的のためには手段を選ばず、恥も捨てる｣などとメチャメチャ言われました。でも、「誰も私の真実は分からないのよ｣と言い返す自分が本当は一番分かっていませんでした。とにかくアホな不遜な子でしたが、あっという間に月日は過ぎて予定死亡年齢の<span>3</span>倍以上になってしまうと若き日の思いと実人生がどれほどかけ離れたものかがわかります。わたしは太った大口を開けて笑うようなおばさんにはなりたくなかったし、しわくちゃの入れ歯をはめたお婆さんになるのも許せなかったのです。それまでは子供経験しかないから、年長者を外見のみで判断するしかなっかたのよ。でも中年になった頃だって思慮深さは見られず、老人になったら友達もいなくて体もガタガタですることもない暗い毎日が待っているのだと見当違いなことを考えていました。ところが、常に人生は想像を裏切るのね。還暦近くになるとだんだん地球の重力が減る感じで体も心も軽くなってきて、最近では変化が著明になりました。</span></span>
</p>
<p>
<span style="font-size: 10pt"><span style="font-family: ＭＳ Ｐゴシック">まず第一の変化は、本や映画や遊びに没頭することができるようになったことです。良くいえば集中力が増したというか、他のことが気になりません。ただし一人ですることに限られますが、それを純粋に楽しむことができます。以前は、周りに気を配りながらできる範囲でやっていたことを全力疾走できます。それが許される立場になったからで、誰からも役割を期待されずにいることで時間も空間も自分のものになりました。</span></span>
</p>
<p>
<span style="font-size: 10pt"><span style="font-family: ＭＳ Ｐゴシック">第二には、感受性が増したことです。若者のみずみずしい感受性、鋭い感覚についてはよく知られているのに、老人の感受性については聞いたこともなかったけど、確かに物事が鮮明にとらえられるようになりました。ことに『違い｣について敏感になったと思います。 ものの見方、考え方は『違い』を知ることで形成されていくと考えているので経験が豊かな分だけ年長者が有利でしょう？感性は感覚器官からの情報を処理して自分の中に取り込んだ時の『驚き』といえるから、『違い』に敏感であるのは、すなわち感受性が鋭いことになるってなわけで、わたし感受性がビンビンになってきました。</span></span>
</p>
<p>
以上から、 歳とって得するのはよ～く考えてみれば当り前で、誰からも必要とされない分だけ完全なる自由が保障されていますよね。青年の旗印は常に『自由を求める』だけど、誰でも老人になれば手に入るものだったなんて、わたし知らなかったワ。それにたくさん経験することが『違い』を細かく分類して『驚き』を大きくするなんて知らなかったし、今こう思っていることも10年先のわたしには「なんと子供じみたことを語っている」ということになるはずです。未来のわたしを推測することは絶対できないけど過去のわたしは知っているという事実の重さに氣づかなかったのネ。だから人生って面白いと歳をとると言えるのかも。
</p>
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         <pubDate>Wed, 20 Jan 2010 11:09:08 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>女性の幸福感を決めるもの</title>
         <description><![CDATA[<p>
うつ状態の若い女性たちに、「幸せだと思える状態を作り出す因子を2つ挙げてください」とお願いすると、大部分の人は①愛情②お金③仕事または子供と答えます。
</p>
<p>
愛情というのは誰かに、つまり自分の好きな男性に愛されることを意味します。家族がどんなに愛してくれても、女友達がいかに気を配ってくれてもそれだけではダメです。また一方的な片思いでも満足できません。彼が自分を愛してくれていると思わせる行動を見せられなければ幸せだと納得することはできません。それに周囲〈家族や友達〉の愛情が加わればさらに完ぺきという具合で、最終的には彼の行動が決め手になります。
</p>
<p>
２番目のお金は、現在の自分の仕事を頑張って収入を多くしようという発想ではなく、棚ボタ式にどこからかお金が入って来るか、あるいはうまい儲け口があり持続して高収入が得られることを意味します。「本当に、そんなうまい話があると思いますか？」と問うと「思いません。」と皆さんは答えます。だからお金持ちになる可能性は低いのです。
</p>
<p>
３番目の仕事にしても子供にしても順調に物事が運んでいる時はよいのですが、挫折や失意は必ず伴うものでその時には崩れ去ることが多いです。だから①～③の手段で恒常的に『幸せを感じること』はすごく難しいのではないでしょうか！それでは他に幸福な状態になれる因子がないでしょうか？それは自分で完全にコントロールできるものであれば一番確実でしょう！私たちが確実にコントロールできるというのは自分の肉体と行動しかありません。だからこの範囲で因子を見つければよいと思います。
</p>
<p>
私は①便通②適正体重をあげてはどうかと考えています。朝、どっさりすっきり排便した後の爽快感は何事にもかえがたいものです。足取りも軽く舞い上がる心地で一日中ハッピーに過ごせます。そして、自分のお気に入りの適正体重が維持されていると自信が湧き出てきます。見て！見て！っていう感じで自意識過剰な嫌味は出ますが、いたって本人はハッピーです。なんと低級な幸福感と思われる人もいるでしょうね。でも、小さい幸せがたくさんあるほうが、それも常時感じているほうがバカでかい幸せがいつ来るかもしれないのを待つよりずっとましだと思いません？
</p>
<p>
それで上記の若い女性たちに「便通と適正体重はどうかしら？」とたずねるとほとんどの人の賛成がいただけます。いつからでも開始できて費用もかからずお手軽です。でも両方手に入れているのにまだ幸せを感じない人は『欲張りさん』ですね。そんな方は欲望について問題があるかもしれません。
</p>
]]></description>
         <link>http://www.kozue-cl.com/2009/12/post_67.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">雑感</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 08 Dec 2009 10:04:02 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>女の選び方</title>
         <description><![CDATA[<p>
先日、美容院でシャンプーしてくれた若い男性が、「今まで女性と親密な付き合いをしたことがないので、どういう人を選んでいいのかわからない」と言ってました。あら、男は選ばれる立場なのにわかってないわねと内心思ったのですが、可愛いから教えてあげることにしました。私の息子が小学校に入学したときに教えたことの一つに『女の選び方』があります。ちなみに『わからない問題でよい点数を取る方法』というのもあり、真に受けた息子が試験で実践してひどい点数を取り続けていたから、これはだめだったわね。他には『いい女にもてる方法』というのもありました。この教育方針を小学校の父兄会の席で挨拶替わりにしゃべったら、その後誰からも話しかけられなくなりました。だから、私の方法論を実行するのはちょっと勇気が要りますね。
</p>
<p>
さて、女を選ぶなら３つのタイプしかありません。まず第１は絶世の美人です。でもこれはハードルが高くて無理よ。私も絶世の美人探しをしたことがありました。数少ない男友達や親戚(女性は嘘つくかも知れないので除外)に絶世の美人を見たら電話してほしいと頼み込んでいたのですが、何年たっても報告はありませんでした。だから絶世の美人はあきらめたほうが賢明なのですが、万が一に手に入れそうになったら、それ以後の自分の人生が悲惨になる覚悟をしなければいけません。稀有な宝は盗まれる危険が高く、また35歳以降は老化との戦いで絶世の美人は疲れ果て、家ではぶすっとふくれているからです。
</p>
<p>
２番目はすごく優しい女神様のような人です。このタイプも一般人には難しいかもね。すごく優しいから誰にでも優しくしてしまうし、優しさを愛と勘違いする男は多いから、一夫一婦制には向かないでしょうね。うまく結婚できたとしても育児には不向きな人です。なぜなら育児は優しさばかりではダメで厳しさが絶対に必要だからです。ここのところをよく考えてアッタクしてください。
</p>
<p>
３番目は面白い女性で、ここらがもっとも手頃ね。といっても本当に面白い人は実は少ないのよ。ダジャレを言ったり、ノリが良かったりするのもいいけど飽きが来る可能性があるし、常にテンション高くされるとつらいです。人は新鮮な驚きを面白いと感じることが多いので、このへんに重点を置いてみるとよいでしょう。自分なりのものの見かたを持った人がおすすめです。
</p>
<p>
ここまでの話を聞いた美容院の若い男性が言いました。「ちょっと美人で、ちょっと優しく、ちょっと面白い女性がそれぞれいたときは、その中の誰を選んだらいいのですか？」だって。そんなこと自分で考えればいいじゃないと思ったけど「やっぱ、１番からキチッと決めていくのよ！」といい加減に答えました。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
]]></description>
         <link>http://www.kozue-cl.com/2009/11/post_66.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">雑感</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 08 Nov 2009 22:10:11 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>夫婦の品格</title>
         <description><![CDATA[<p>
今までに多くのご夫婦にお目にかかりました。私は友達が少ないため、また夫と趣味が異なるので、家族でのお付き合いはほんのわずかです。だから仕事上で知り合えた場合が多く、奥様の受診の際にご主人にお話をうかがったり、説明したりすることでお会いするパターンがほとんどになります。
</p>
<p>
女性がどんな男性を伴侶としているかについては常にとても関心があります。この仕事をしていてよかったと思うことの一つは、実際にそれを目にすることができることです。ある人は、診療時にのぞき趣味的なことを考えているなんてとんでもないと叱るかもしれませんが、私は患者さんのすべてについて医者は関心を持つことが許されていると解釈しています。
</p>
<p>
それで面談時には内心ｳｷｳｷしながら冷静な態度を保つように心がけて、ご主人に焦点を合わせていきます。そして大概の場合、それまでに奥様から推測していたご主人像を裏切られることになります。なぜこんな結果が出るのかは私の人間観察がダメなのだと控え目に述べるのがいいのでしょうが、ちっともそんなこと思っていません。なぜなら、うちの夫婦のどちらか一方の知り合いに夫婦ずれで出くわした場合、後で知り合いから奥さんまたはご主人は想像と全然違っていたと聞かされるからです。他の人たちでもその人から推測される妻や夫像は現実とはかなり違うということになります。ここが面白いところよね。
</p>
<p>
では、どんな情報から夫婦のかたわれを想像するかというと、どうも今まで見てきた映画やテレビ、雑誌、小説などのパターンを模倣しているらしい気がします。だから想像上の夫婦のかたわれは誰もが同じようなタイプをあげるのです。私たちがいろいろなメディアから教育された夫婦像というものは何を基準に二人を組み合わせているかというとそれぞれの【品格】ではないかと考えます。現実はさにあらず一致しません。しかし一致していない品格を持つ人たちがが夫婦となり二人揃った時に夫婦としての一つの品格を持ってくるのが驚異です。夫婦の仲の好さには関係なく、その夫婦が存在を現わしたときに生じる品格の妙に人生の奥深さを感じてしまいます。そして面談後には二人が夫婦でいるのことに納得している私がいて、ドラマを観終わったような満足感があります。残念なことに当事者にはこの【夫婦の品格】が見えませんから、時には隣の芝生が青く見えるのでしょうか？これもまた可笑しいところですよね。
</p>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">雑感</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 03 Oct 2009 17:25:18 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>『自信』の作り方レシピ</title>
         <description><![CDATA[<p>
私のクリニックへ通院している少女がカウンセリングの中で、「自分は自信がないのでいつもビクビクしている。両親も自信を持ちなさいと言うし、教師も得意なことがあれば自信になるから、得意なものを探して一生懸命やることだと言われている。でも何も興味は持てないし、どうしてよいか分からない。｣と小さな声で話してくれました。アドバイスした方々の思いは『自信』という鎧を着けて日々の暮らしの厄介事から自分の身を守ろうとするイメージなのでしょうが、鎧は重いし壊れるし、第一どうやって着ければよいのか具体的には教えてくれないじゃない。得意なことがあっても自信がついていないときはどうすればいいの？と反論したくなるわね。
</p>
<p>
そこで、私オリジナルの『自信』の作り方レシピを公開します。
</p>
<p>
『自信』とはいかなるものかというと、「自分の能力や価値を確信すること。自分の正しさを信じて疑わない心」と広辞苑にあるように心の状態を表現する言葉です。心は不定で捉えどころがないものなので、放置すればいつまでも安定した状態になれず、自信があるという気持ちが出来上がることはありません。しかも連続して自信あり状態にするには不休で心を規制しないといけないのです。こんな大変なことを、そう簡単にできるなんて思わないでくださいね。
</p>
<p>
私の『自信』の定義は『自分の物の見方の確立』だとします。
</p>
<p>
その方法は第①に観察をきちっと行うこと、第②にその観察にもとずく情報をたくさん集めること、第③に情報が正しいものであるかどうかを選別すること、第④に選別された情報に対してどう考えるかを決定すること、これら４段階から成立しています。
</p>
<p>
どこかで見たことがあるでしょう？実験結果を出すやり方と同じです。手順に従ってやっていれば、いつでも自分独自のものの見方が出来上がる仕組みで、慣れてくるとあまり労力がいらないと思うわ。
</p>
<p>
このレシピを少女に教えてあげて、あとは練習に付き合うというのが私のところのやり方ですが、一人でも十分に習得可能なので、必要な方はぜひお試しください。
</p>
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         <link>http://www.kozue-cl.com/2009/09/post_64.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">雑感</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 06 Sep 2009 13:05:46 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>　『うつ』　と進化</title>
         <description><![CDATA[<p>
人が進化するとすれば何を、どういう状態を目指しているのだろう？
</p>
<p>
私が医者になりたての頃は　『患者さんに1分1秒でも長く生きてもらうこと』　が医学の至上命令であった。それはとてもわかりやすくて医者に迷いが生じることは皆無であったし、医学の最も幸福な時代であったような気がする。
</p>
<p>
しばらくして、ただ生きているというだけではダメとされるようになった。植物人間になると生命維持装置をどうするか、臓器提供をどうするか、多額の医療費をどうするかなどの選択を家族と医療側が迫られる状況になってきた。すなわち、生きていても社会に貢献できず迷惑をかけるときは生きる必要がないとする傾向が増大してきた。
</p>
<p>
社会が経済最優先で動いている現代は、生産性を上げ利益を得ることが最も大事で、それを脅かす要因はできるだけ排除したいとする。だから感情を出し過ぎて泣いたり笑ったり忙しい人は仕事のじゃまだとされ、クールに機械的に仕事をこなす人が『できる人』だとたたえられるようになった。私たちは感情的でなく知性的であれと要求される。権力者あるいは搾取する側がそれを命じているが、概要が捉えずらくて、逆に大衆の総意だと思わされてしまう。
</p>
<p>
感情が豊かであるということは自然に寄り添って生きていることで、より動物的であることにつながるかもしれない。感情豊かに生きている人がそれを抑制しろとされたら、生きる喜びを失ってもおかしくないでしょう？『うつ』がこんなに増えているのは感情を抑制しようとし過ぎた人々が時代に対して抗議の御旗を掲げ始めたからではないか？
</p>
<p>
中世ヨーロッパにルネッサンスが台頭したように、『うつ』は人間性謳歌のきざしかもしれない。でもルネッサンスとの相違は運動の中心を成す人物が天才や大商人ではなく、一般大衆ことに女性である点であり、また理性尊重というよりは感情重視の点にある。古代文化の蘇生ではなく、原始人間復興と言いたい気がする。損得勘定の渦巻く知性優先の現代に異議を申し立てる人たちが『うつ』になるのではないか？そして「ただ生きているだけで十分に意義があるのだ」と理性を自認している人々に教えてくれているのではないか？
</p>
<p>
『うつ』は歴史の中で人が進化するために生じた必然なのかもしれない。『うつ』の人が自分は『うつ』だとしっかり受けとめ、その状態を周囲に理解させることが重要なのではないかと考える。
</p>
<p>
そして、『感情を優先させる文化』が新たに生まれつつあるという思いがする。
</p>
]]></description>
         <link>http://www.kozue-cl.com/2009/08/post_63.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">メディカルエッセイ</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 09 Aug 2009 15:26:53 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>運が悪いと思っている人のタイプ</title>
         <description><![CDATA[<p>
仕事がらたくさんの人生を垣間見せていただいて気づいたことの一つに『運は本人が決めている』という のがあります。『運の良い人はずーっと良いことが重なる、悪い人はずーっと悪いことが重なる』とよく言われるのは、もし本人が運を決めているのだとしたらそうなる確率は高いはずでしょう？
</p>
<p>
判断や決断をする際、人には２つのﾀｲﾌﾟがあるようです。論理的合理的に考えて判断するタイプと好き嫌いの情で判断するタイプです。論理的合理的判断タイプはあまり運、不運とは関係ありません。 その人の読みの深さが行く道を決めるからです。もう一方の情に左右されて判断するタイプに問題があります。このタイプは人間味があり愛すべきチャーミングな人が多く、情にもろくて、飽きっぽくてさらにあきらめがいいという特徴があります。
</p>
<p>
さて、人生は常に選択の連続といってよいでしょう。ことに大事な局面にさしかかるほどに判断や決断の重要性が増します。大きな決断時というのはほとんどの場合その人の試練の時に当たります。誰でもつらそうなことはやりたくないのですが、やった場合とやらない場合の結果をシュミレーションして天秤の動きを読むというのが合理的判断です。ところが好き嫌いの情で判断する人は「イヤなことはいやよ！」と思っていますから、嫌なことに対してはやらない理由ばかりを考えて「あーだ、こーだ」と迷いながら結局はやりません。すごろく遊びの『上り』を『幸せ』とするならば、やるほうに決断したほうが絶対有利なのに。もし、やらないと決めたときは即座に断るほうがリスクが少ないのです。情で判断する人は好きなことは即答するので、うまくいったらツキまくるという結果が生じますが、こんなことはごく稀です。ほとんどの場合はチャンスを逃してしまいどんどん『上がり』から遠ざかるでしょう。
</p>
<p>
「じゃあ、どうやったらこのタイプが早く上がれるの？」の問に対して、とりあえず「ハイ、やります！｣と即答することだと考えます。ただしこれには条件が伴います。「他人からどう思われようと平気だわ｣という性格を合わせて持っていないと逆に自分を窮地に追い込みかねません。他人の評価が気になる人の場合には好き嫌いの情が働く以前に即答する（この場合の良い、悪いの確率は半々）、あるいは自分で決断しないことでしょう。論理的合理的な人に判断をあおげばよいのです。人の眼を気にしやすい情にもろくさらに好き嫌いの激しい人は重大な決断を絶対に一人でしてはいけません。悪い方向に向かう可能性が大きいからです。 運が悪いと思っている人は、このタイプじゃありません？
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
]]></description>
         <link>http://www.kozue-cl.com/2009/07/post_62.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">雑感</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 11 Jul 2009 09:49:36 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>存在感を出すための工夫</title>
         <description><![CDATA[<p>
最近、私生活で大きなｲﾍﾞﾝﾄがなく、ちょっとつまらないモードに入っています。元々ドラマチックなこととは無縁なのでどおーってことないのですが・・
</p>
<p>
中学生の頃から父は私の存在感の希薄さをよく嘆いていました。見栄っ張りで嘘つきで、弱虫のくせにからいばりする濃いｷｬﾗの父から見ると、いつも人の陰に隠れているような私が頼りなげだったのでしょう。私の家族はうるさく激しい人たちの集まりなので私のおとなしさ？が異質だったのネ。影が薄いと言われ続けたので、存在感をだす工夫をしなければとやりだしたのが今に至る『ごっこ遊び』です。
</p>
<p>
それは或る役柄を設定して演じるというものです。今回は、母の形見（母は今も元気だし、品は自分で購入）の古時計を修理に出そうとしている世間知らずの独身中年女性という設定で行いました。実は３０数年前に外国旅行先で自分で買った初めてのﾌﾞﾗﾝﾄﾞ物の時計でしたが、長期の酷使に耐えられず壊れてしまいました。近所の時計屋でもう部品はないから買い換えたほうが良いと言われていたのです。
</p>
<p>
昨日は気合を入れてお化粧し、持服で最もマシなものを着用して大手デパートにくりだしました。朝の時計売り場は閑散としていて、すぐに一番年配の店員さんがやってきました。ゆっくりと売場を往復してから、彼にその時計を見てもらい修理を依頼したところ、即座に部品がないから駄目だと断られました。
</p>
<p>
ここからが本番よ。泣きそうな顔つきをして「なんとかならないでしょうか？これは母の形見なので私にはかけがえのないものなのです！」と訴えて母が使用していた架空の歴史を披露して時間をかせぎました。店員さんはしつこい私に辟易し始めます。そこでもうひと押し、「なんとかできないでしょうか？きれいになおらなくとも身につけさえできれば良いのですが・・」というとブランド物は本社に送って修理するので当店では扱わないという返事です。それは分かっていたのでひるみません。「時間が狂ってもいいのです。ただ動いてくれさえすれば母が喜んでくれている気がするので・・」ってなことを延々とやっていると、とうとう彼は根負けして時計の蓋を開いてみてくれました。さすがにプロよ！動き出したし、切れた金属製のバンドﾞも繋いでくれました。｢これは応急処置だから保障できませんよ。｣といって修理代を受け取りません。「こんなに素早くなおせるなんて、プロ中のプロだわ！天才だわ！ありがとうございます！｣と大声で叫んで、呆れている店員さんたちを尻目に売場を去り、こんな善意の人のいる店に少しでも貢献できたらとの考えから好物の菓子をたくさん買って帰りました。
</p>
<p>
夜、夫にこの経過を話したところ「それは詐欺じゃないの？｣と言われてしまったのですが、詐欺ではありません。店員さんの好意を引き出したことで、店も良い顧客（私のこと）を手に入れ、メデタシ、メデタシとなったからです。
</p>
<p>
かように私の『ごっこ遊び』も成熟して、味気ない日々にわずかな色どりを添えることになりました。これって対人関係に利用できると思いません？いろんなキャラを作って、きちんと役割分担させてやりこなせば、ミステリアス女性の出来上がり！影はキメラとなってシッカリ存在感を持つでしょう？
</p>
]]></description>
         <link>http://www.kozue-cl.com/2009/06/post_61.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">雑感</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 14 Jun 2009 20:56:58 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>欲望</title>
         <description><![CDATA[<p>
私の母は今年で89歳になります。介護３の認定を受けており、60過ぎた妹が家で面倒を見ていました。母は元来、自分を美化する傾向が強く、母としても女としても完璧にこなしていると自負しているようでした。実際は、好きなことしかやらないという生き方で、子どもたちは母が自分で思うほどにはイノセントでもなければ、愛情深くもないと承知していました。この数年、認知症が見られるようになると家族に対して『良い人』の仮面はあっさり脱いでしまい、横暴な独裁者に変身しました。エゴを肥大させた欲の塊で、要求が通るまで執拗に周囲を攻め立てます。灰白質が薄くなったせいなのか、母の生き方に問題があるのかよく分からないと私は視ていました。先日、母は介護施設に入りました。当初は『良い人』のふりができていたようですが、この頃はまた『困った人』に戻ってしまいました。
</p>
<p>
昨日、私は『筍がり』の格安バスツアーに行ってきました。あの横殴りの雨にもかかわらず決行されてしまい、キャンセルするのももったいないので嫌々ながら行きました。早朝出発して、千葉に向かうほどに雨と風が強まりました。「まさか、筍は掘らないわよね。」と思ったのも外れて、鍬を持たされ、傘を首で押えながら掘ってる途中で傘が飛びました。泥がぬかるんで足元はずるーっと開脚するし、｢こんなところで転んだら末代までの恥だ！」と力んだせいで体中痛くなりました。筍を3本採ってバスに戻り、これで終わりかと思っていたら、また外れて鋸山ロープウエイに乗るというじゃない。しかもロープウエイに乗車する前に全員で記念写真を撮るのです。雨が容赦なく吹き込む乗車場で｢はい、笑ってください。」と言われても笑えないわよ。雨しか見えない景観を楽しみ、食事で終わりと考えたら、やはり甘かったわ。その後ポピーを一人10本摘むのだというのです。もうこれ以上濡れても同じだからという思惑があったのでしょう。鋏を持って、何色の花が咲くか分からない固いつぼみのポピーを適当に切ってきました。
</p>
<p>
かように試練にさらされたバスツアーでしたから、全ての行動は効率よく短時間でこなすことが要求されました。しかし、ゴールデンウイークの初日のためにツアー参加者が半端でなく多かったことと、大半が高齢者であったことがそれを妨害することになりました。日頃、『慎み深く、思いやりを持って行動しよう』を標語に掲げていた？私は目的のためには豹変してしまいました。何百人もいる人たちの先頭を切って歩き、真っ先に筍を掘り、ポピーを摘んで、一番早く食事を終えて、一番早くトイレに駆け込むような行動をしていました。しかもポピーは既定の倍数摘んでいました。
</p>
<p>
猶予のない状況になれば、私は認知症でもないのに簡単にエゴまる出しとなるのだと思い知りました。母からの遺伝でしょうか、人類のサガでしょうか。欲望をコントロールすることができるのでしょうか。お釈迦様のように俗界のしがらみ全てを捨てなければできないのでしょうか。上手に老いることなんて不可能なのかもしれませんね。
</p>
]]></description>
         <link>http://www.kozue-cl.com/2009/04/post_60.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">雑感</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 26 Apr 2009 23:55:46 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>桜、桜</title>
         <description><![CDATA[<p>
<span style="font-size: small; font-family: ＭＳ Ｐゴシック">満開の桜の下を行きつ戻りつしながら歩き、さらに車で通って、これでもかというほど桜を眺めてこの２日間を過ごしました。西行の句や平家物語の詩や梶井基次郎の短編に毒されている自分を感傷的な俗物だと十分認識しながら、過剰な自意識を秘めて桜の下にいるのは恥ずかしくて身がすくむ思いです。一人で桜を見ていると、過去を無かったものにしたいと思い、人は恥に恥を重ねて、さらに生きるしかないのだと思ってしまいます。桜は美し過ぎて対極にある『死』を連想するのだという人がいます。でも梶井の『桜の樹の下には』の着想は彼の体験から来たものだろうと私は考えています。なぜなら私の体験と重なるからです。</span>
</p>
<p>
<span style="font-size: small; font-family: ＭＳ Ｐゴシック">小学１年生の夏休み期間、私は祖母のいる田舎に預けられました。その時、村で葬式がありました。村中の人が集まって通夜をして、翌日葬儀が行われた後に埋葬されます。<span>55</span>年前の農村では死者は大きな木の桶に入れられて、田んぼを見下ろす人里離れた小高い山に埋葬されていました。夏のキツイ暑さをこらえて、細い山道をおおぜいの人が泣きながら桶の後にくっついて行きました。角型の木の棒が何本か立っているところが村の墓場でした。そこは山の斜面の一部を平らにしてあり、後ろには山のものとは異なる木が植えられてありました。男衆が穴を掘っている長い時間、私は手持ちぶさたでその木を眺めていました。その後、あの時の木が山桜だと知りました。墓の桜が咲いたところは見ていませんし、咲いてもソメイヨシノのような華やかさはなかったでしょう。薄桃色の雲のような桜が家の周辺でチラホラ見られるようになったのは昭和<span>30</span>年に入ってからだと思います。そのうち土葬もできなくなり、墓も移されてしまったのですが、私の記憶の中で、あの時埋葬された場所は桜の花びらが風に舞ってピンクの渦をつくっている場面として残ってしまいました。</span>
</p>
<p>
<span style="font-size: small; font-family: ＭＳ Ｐゴシック">息子が小学生になった時、家族<span>3</span>人で明治村に行きました。そこで思いがけぬ桜吹雪に出会い、薄桃色のベールに包まれてあまりの美しさに私は不安になりました。この瞬間を留めるには『死』しか方法がないのではと思われました。『美』の対極は『無』かもしれないと感じた一瞬でした。</span>
</p>
<p>
<span style="font-size: small; font-family: ＭＳ Ｐゴシック">街のあちらこちらに立派な桜並木が見られるようになり、温暖化の影響で早く育ちすぎて大木化し、既に老朽化をむかえた樹もあるようです。桜トンネルのような満艦飾はクリスマスのイルミネーションのようで、もう『死』からも『無』からも遠い気がして、不安は存在しません。それでも満開の桜を見ると毎年、ひどく心を乱されるのです</span>。
</p>
<span><span style="font-size: small; font-family: Century">&nbsp;</span></span>
]]></description>
         <link>http://www.kozue-cl.com/2009/04/post_59.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">雑感</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 06 Apr 2009 01:22:19 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>個性と治療の関係</title>
         <description><![CDATA[<p>
&nbsp;
</p>
<p>
いつも風邪をひくと不思議に思うことがあります。現在、同居人はダンナ一人なので、どちらかが風邪をひくともう一方も感染することが多いのですが、その場合、同じウイルスが入ったはずだから症状も同じだろうと考えると似て非なる状態になります。風邪の基本症状は、ダンナはのどをやられて咳で締めくくり、私は頭痛で始まり下痢で終結する。途中経過にダンナは胃痛をみることが多いが、私は皆無。喉風邪の場合は、私は基本症状に少し上気道症状が増え、おなかの風邪ではダンナの便が緩むということになります。つまり個体によって弱いところが違うということでしょう。こんなことは誰でも気づいていることでしょう？でも、医者に診てもらうと、ほとんど同じ処方がだされます。私も、流行り風邪で来院した患者さんには同じ薬を処方します。せいぜい咳止め、下痢止めの薬を増加するぐらいの調節しかしません。はたして、これでいいのだろうか？もう少しきめ細かく変える必要があるのでは？と感じていても風邪は短期で治ってくれます。
</p>
<p>
問題は、『うつ病』のような、性格や状況に影響を受けやすい病気の場合です。現在の病気治療の王道は、まず、きちっとした診断をして、エビデンスのある治療を行うということになっています。すなわち診断が決定するとマニュアル通りのやり方がなされます。私もこのやり方でやってきましたが、何年か前から「これでいいのか?」と感じるようになりました。
</p>
<p>
『うつ病』の場合、メランコリー型を例にとると、生真面目な融通の利かない、責任感のある自罰的な人にこの病気が起こりやすいとされています。しかし、ドンピシャのモデルなんか見たことありません。とてもしたたかだったり、他罰的だったり、未成熟だったり、性格に問題がなかったりします。また、抱えてる状況もかなり異なります。もしも、性格が非定型うつ病様だとしてもメランコリー型と診断したら、その治療法を行います。ところが改善した後で分かるのですが、個性は病状で変化することは少なく、むしろ病気の経過を個性が決定しているように思われます。そういう機会があるたびに、病気に対する個性の関与はかなり大きなものだと再認識します。それでも、マニュアル通りの治療をしなければいけないのでしょうか?オーダーメード治療では統計も取りにくく、効果判定も難しくなります。大学病院あたりでこれをやろうものなら指導医に怒られてしまうでしょう。もし、オーダーメード治療がうまくいかなかったら、マニュアル通りにやっていたほうがずっと良かったというはめになってしまいます。リスクを考えると実行は難しいですよね。
</p>
<p>
とは言え、大雑把に原因で分類された治療が基本で、それに症状に応じた薬を足してゆくやり方は個体の特質を無視していて、洗練されたものには思えません。しかし漢方のように個体を主体にした、原因を問わない治療では片手落ちの感もします。まだ治療法も二分割思考の段階にあって、発展途上ということでしょうか。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
]]></description>
         <link>http://www.kozue-cl.com/2009/02/post_57.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">メディカルエッセイ</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 08 Feb 2009 10:10:16 +0900</pubDate>
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   </channel>
</rss>
