> 私は強い人なのか?
私は強い人なのか?
先日、知人と話してる折に「あなたは強いからそんなことが言えるのよ!」と憮然とされてしまい、こちらこそ唖然とすることがありました。私の体が強いはずはないので、精神的なものが強いという意味なのでしょう。そう言われても「どこが・・?」って感じで参ってしまいました。今まで「強い」、「鈍い」、「粘い」、「太い」、「ちゃっかり」、「ぽっかり」、「しっかり」、という形容詞、形容動詞を私に被せる人がいても「何も知らないくせによく言えるわネ」と無視していましたが、何故こういう納得できないことを人様に言われてしまうのかきっちり分析しておくほうがイイかなと考えました。
知人は息子が職場の人間関係で悩んでいることで彼女も悩んでいました。なぜ彼はうまく人と付き合えないのか、なぜ明るくふるまえないのか、なぜ積極的な行動がとれないのかと気をもんでいました。でもそれらは彼女にも当てはまることですから体質みたいなもので、気に入らない遺伝を持ったと文句つけてもしょうがないわ。「今まで支障なくやってこれたのだから、それらの性格はたいしたハンディーではなさそうよ。」と言うと、「子供のことがいつも気になって、そんなふうには考えられない。」と答えが返ってきました。
こういう感じを母性とか愛情と呼ぶのでしょう。私は眼前に子供がいないとその存在はほとんど意識されません。それは友人でも、家族でも恋人でも同じです。夫との恋愛期間中もここにいない彼の存在は意識されることがないという事実に気づいていて、それを愛情の欠如だと恥じていました。私には愛する能力が足りないのだと確信していました。今ここにあることが私の世界の全てらしいのです。想像することは大好きですが、想像の世界を体験している自分しか実感がありません。夫ならば、子供ならばという仮定は成り立ちません。だから一人でいても楽しく過ごせます。友人や家族といても楽しいですが、いなければ彼らをほとんど意識しませんから、ときに周囲の人たちから薄情な人間だと思われるようです。友人からのお誘いはほとんど無くて、誘う時は必ず私からの一方方向であるのがその証明でしょう。やはり情が薄いというのでしょう、あるいは執着しないのかもしれません 。
小さいころからの私のイメージは『暗い冬の小道を這いながら、震えながら進む姿』であり、路傍の街灯や焚火などに遭遇すれば僥倖だというものなので、こんな最低の状況を人生のベースとしていれば何があってもしょうがないとあきらめられるわね。もうひとつ子供のころから考えていたことがあります。『自分は何を求めるか?』という問いに対する答えを見つけるというものです。中学2年生の夏休みにそれは一つの『スペル』を綴ることだと思いました。それからずっと綴らねばならぬ『スペル』を探していて50代半ばにやっとこれだろうというものがでてきましたが、まだ決定ではありません。これって大いなる一人遊びだと思いませんか。そうすると私に被された様々のことは合っていたことになります。ここまで書いてきてやっとわかりました。繊細さの反対にある野蛮な強さというものは個人の資質ではなくて家系が有するDNAなのだと。私の家族はフレンドリーでもなければ争い合っている関係でもありません。用事がなければ電話もしないし、正月でさえわざわざ集まることはありません。困った時は助けてくれず、必要ない時にはおせっかいしてきます。それぞれが勝手で相手に要求はするが期待はできないと思っています。この姿勢は表現方法が少し異なるだけで私の実家の者たちに共通します。そういえば父方の祖母に私はよく似ていると言われていましたが、祖母も同じような性格だった気がします。
2010年03月31日